上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第六章  上総武田氏と上総金田氏 その2
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第一章 第二章 第三章 第四章 第七章 第八章

   金田常信の代に金田姓に復した歴史的背景を知るために、第五章で享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響を及ぼしたかについて検証してきた。
しかし、金田姓に復するのに直接影響を及ぼした上総武田氏について検証することで、千葉大系図や金田系図にも記されなかった隠された事実を解明しなければ、今日上総金田氏の子孫たちが金田姓を名乗ることになった真実を知ることはできないのである。
上総武田氏は上総金田氏と親密な庁南武田氏と後に敵対関係になる真里谷武田氏に分かれて上総国を統治した。
第六章では上総武田氏を詳しく扱うことで上総金田氏との関連性を検証することにする。
 

蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                     (三河金田氏祖) 
 
 (5)武田信長の上総入部と鎌倉大草子

武田信長の上総入部について一般的な印象は鎌倉大草子37に書かれている次のような記述に基づくものである。

    上総国には武田入道(信長)が討ち入り、庁南の城と真里谷の城を拠点として父子で立て籠もって国中を押領した。
房州の里見はこれに力を得て、十村の城から蜂起して国境へ軍勢を出し、あちこちを押領した。
簗田河内守は関宿から討って出て、武州足立郡をなかば以上押領し、市川の城を取った。
 

現在では武田信長がアクアラインを利用して木更津を経由して上総国に攻め込み、里見が東京湾フェリーを利用して浜金谷経由で安房国に攻め込み、簗田河内守は外環道を利用して市川城に攻め込むイメージとなり、アクセスも容易で鎌倉大草子に書かれていることは事実と信じる人もいるだろう。
しかし、当時は文明の利器はなく上総国には下総国を経由して陸路で攻め込まなければならなかった。
下総国は古河公方派の馬加康胤と幕府派の東常縁が争っている状況だったから、軍を率いて簡単に通過することはできなかったのである。
もしも、武田信長が上総国を制圧するだけの十分な兵力を従えて下総国を通過したならば、更なる幕府派との大規模な衝突は避けられず、新たな記録として別に残ったはずである。
安房国の里見氏の資料にも、武田信長の上総入部に呼応して軍事行動に出た記録は残っていない。

上記文章に書かれている内容で唯一歴史的事実として確認できるのは、康正2年1月古河公方派の簗田河内守持助が率いる軍勢が幕府派の千葉実胤・自胤兄弟が籠る市川城を落城させ、千葉実胤・自胤兄弟を武蔵国石浜城へ追払った出来事だけである。

このようなことから、武田信長の上総入部については、次のような出来事があったと推測した。

  • 鎌倉大草子に書かれているように、一挙に庁南城・真里谷城を確保するような派手な軍事行動はなかったが、簗田河内守持助が率いる軍勢の一部隊として下総国を密かに通過して上総国に入国したのではないか。
しかし、そのような小規模な兵力で上総国を平定することは可能なのだろうか。それを検証することによって、戦国大名上総武田氏の成り立ちについて述べていきたい。

 (6)武田信長の上総入部をあらゆる側面から検証

甲斐守護武田氏出身の武田信長が、上総国の支配権を確保するにはそれなりの要因があったからである。政治的要因・国人たちの動向などあらゆる側面から検証することにする。


 ◎古河公方足利成氏の危機感

康生元年(1455年)に起きた千葉宗家の争いで、古河公方派の馬加康胤らがに幕府派の千葉胤直・胤直父子を千田荘にて攻め滅ぼした。
幕府は東常縁を下総国に派遣し千葉胤直の甥千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤に対して優位にたった。

鎌倉大草子36に東常縁・浜春利が馬加城を攻め落とし、馬加康胤・原胤房を平山城・小弓城方面に退かせた記述の後に書かれている下記の文章に注目する。

   (東常縁・浜春利は)その勢いに乗って上総のそこここに拠点を定めた。
敵城が自落したので、浜式部少輔(春利)を東金の城へ移し、(東)常縁は東の庄へ帰還した。
 

東常縁は下総国では国分・大須賀・相馬などを味方にして、上総国にまで勢力を浸透するべき活動をしていたと考えられる。敵城が自落したというのは、古河公方を支持した城主が寝返ったということである。東金城以外にも寝返りが続出したと思われる。
古河公方派と幕府派が対立していた中で、上総国は空白地帯だったのである。
鎌倉大草子の文章が事実だったかは不明だが、もしも、幕府派が上総国の支配権を握ると、馬加康胤・原胤房ら古河公方派は絶体絶命となってしまう。
これにより南関東での幕府派の勝利は確定し、古河公方足利成氏が劣勢となってしまうのは明白であった。

古河公方足利成氏の決断は、東常縁ら幕府派が各地で転戦し防備が弱まった千葉実胤・自胤兄弟のいる市川城を直接攻撃することだった。
この結果、簗田河内守持助が率いる軍勢が市川城を落城させ、千葉実胤・自胤兄弟が武蔵国石浜城へ追払うことに成功した。
幕府派から古河公方派に寝返る国人が続出し、馬加康胤・原胤房ら古河公方派は勢力を回復した。

古河公方足利成氏は上総国の支配権を確保することの重要性を認識したので、近臣の武田信長に対して上総国に入部し支配権を確立する命令をしたのであった。古河公方足利成氏の決断によって古河公方派は両総方面での劣勢から立ち直ることができたのである。


 ◎上総国にいる古河公方支持勢力の危機感

上総国は犬懸上杉家が守護に任じられた時期に犬懸上杉家の被官だった領主が多く存在し、上杉禅秀の乱後にそれらの多くが上総本一揆に加わり、鎌倉公方足利持氏の派遣した軍勢によって鎮圧された。上総本一揆に加わった者たちから没収した領地は、鎌倉公方の御料所となったり功ある者に与えられたりした。
享徳の乱が起きると、上総国の古河公方派の領主や御料所を管理している国人たちは、上杉氏による上総国侵攻が行われ自分らが追い出されるのではという危機意識を持っていた。古河公方足利成氏が近臣の武田信長に上総入部を命じた知らせを彼らが待ち望んでいたであった。


 ◎武田信長が上総入部に至るまでの仮説

武田信長が上総入部に至るまでの直接的な資料が残されてないため、鎌倉大草子37に書かれてる上記(5)に書かれている武田信長に関する記述が幅をきかせているのが現状である。
しかし、状況証拠を積み重ねていくと新たに武田信長が上総入部に至るまでの仮説を立てることが出来る。

   康生2年(1456年)1月簗田河内守持助が率いる古河公方の軍勢が市川城を落城させる。
幕府から支援を受けた千葉実胤・自胤兄弟が武蔵石浜城に敗走したことで、下総国では古河公方派に優勢となった。
古河公方から千葉介として承認された馬加康胤(以後千葉介康胤)は、平山城を拠点に多くの国人の支持を得て次第に下総国の支配権を獲得していった。
しかし、上総国に幕府派の勢力が多数残っていることは、千葉介康胤にとって脅威であったには違いない。
そのためには、古河公方から上総入部を命じられ武田信長とともに、上総国の幕府方の拠点を攻め落とさなければならなかった。

浜春利が拠点とした東金城(東金市東金)に対し、原胤房の甥である原胤定が城主として千葉大系図に書かれている小西城(大網白里町小西)に古河公方派の軍勢が集結したと考えるのが妥当であろう。
武田信長は下総国の千葉氏の支援を受け、上総国にいる千葉氏の一族も小西城に集結。
小西城にて十分な兵力に守られて、武田信長は上総国にある古河公方の御料所の領有権を古河公方名で宣言をする。更に上総国にいる古河公方派の領主たちに馳せ参じるように発令した。
鎌倉大草子で敵城が自落したと書かれているように、幕府方に無抵抗で降伏していった上総国の領主たちは、寝返りをするのも早かった。武田信長が軍事活動を開始すると、東金城など幕府派の拠点を陥落させることができた。
 

以上鎌倉大草子36で書かれている浜春利が拠点とした東金城を武田信長が攻めるまでの仮説を立てた。上総国東部は歴史的に千葉氏の影響力が残っているので、武田信長が同じ古河公方派の千葉介康胤の支援を受け、支配権を確立するのは比較的容易だったはずである。


 ◎上総国の歴史的背景

武田信長は結城合戦で功名を立て以後多くの戦いで活躍した名将である。鎌倉府・幕府を相手にしてきた政治力も備え、古河公方足利成氏からも大きな信頼を獲得していた。
武田信長は庁南城を拠点として上総国東部の支配権を確立し、その後上総国西部に支配権を拡大するため真里谷城を築城した。上総国東部で比較的順調に支配権を確立できた武田信長であったが、上総国西部では敵対する勢力が多く存在したようである。
このようなことになった上総国の歴史的背景を述べることにする。

    源平合戦ノ頃、房総平成の流れを汲む上総広常とその一族によって上総国は支配されていた。
上総広常は源頼朝の挙兵で活躍したが、路線対立から源頼朝によって暗殺された。

上総広常暗殺後、上総国は東部を千葉常胤に、西部を和田義盛に分割して統治された。
☆上総国西部を領有した和田義盛は和田合戦で滅亡
☆和田義盛領地を受け継いだと言われている三浦氏は宝治合戦で滅亡。
☆三浦氏は一族の佐原盛時が北条時頼に味方して唯一の三浦氏として生き残ったが、その後上総国での三浦氏の存在感はない。

この結果、鎌倉時代・室町時代初期を通じて上総国西部を支配する有力な豪族は存在しなかった。

上総国の東部を領有した千葉氏は、宝治合戦で千葉秀胤が滅亡する事件は起きるが、その後も影響力を保持し続けた。
鎌倉時代、上総国に所領を有した金沢北条氏と婚姻関係を結んだのも、上総国の重要性を認識していたからと考えられる。
室町時代になると観応の擾乱での活躍で千葉介氏胤が上総守護に補任されることもあったが短期間であった。
それでも上総国東部には千葉氏の重臣原氏・円城寺氏・鏑木氏につながる所領が確認されており、他にも千葉氏とつながる領主が多く散在していたと考えられる。

関東管領犬懸上杉家が3代にわたって上総守護を継承し、犬懸上杉家の被官を各地に派遣して領主にさせた。
しかし、上杉禅秀の乱が起きると犬懸上杉家は上総守護を失う。
鎌倉公方足利持氏は上杉禅秀と縁戚関係があったにも関わらず、千葉宗家に対して厳しい処分はなかった。
上杉禅秀の乱後、幕府は京都扶持衆だった宇都宮持綱を上総守護に補任するが、上総本一揆が起こり実際には上総国の支配権を確保することは出来なかった。
その後、宇都宮持綱は他の京都扶持衆とともに、その後鎌倉公方足利持氏によって攻め滅ぼされた。

上総本一揆は犬懸上杉家の被官として領主となった者たちが、宇都宮持綱が新しく上総守護に補任されたことへの不安から一揆となったと考えられる。
応永25年(1418年)5月一揆軍に対して鎌倉公方足利持氏の派遣した軍によって鎮圧された。
翌年1月埴谷重氏を大将とする一揆軍が再び蜂起。木戸範懐を大将とする鎌倉公方軍が派遣され5月に一揆軍が降参した。
上総本一揆後、鎌倉公方足利持氏の近臣上杉定頼によって上総国の御料国化が着実に行われた。一揆軍に加わった領主たちの所領は没収され、功ある者に与えられたり、鎌倉公方の御料所として収公された。
上杉禅秀の乱後、千葉氏の処分が緩やかだったのは、鎌倉公方足利持氏が上総国の御料国化のために、隣国の千葉氏の協力を必要と感じたことによるものと推測される。
その後永享の乱で鎌倉公方足利持氏は自害するが、古河公方足利成氏の代になっても上総国に散在している御料所は保持されていたはずである。
しかし、永享の乱・享徳の乱と争乱が続いている間に、国人の中には御料所を押領する者も出て来ただろうし、領主の中には幕府派と称して武田信長に敵対する者もあらわれたと想像される。千葉氏の支援を得られた上総国東部と単独で戦った上総国西部では大きな違いがあったはずである。

 
◎庁南城と真里谷城

武田信長が当初庁南城を居城としたと考える。その根拠はは下記の通りである。
  • 庁南城を居城としたのは、上総本一揆の根城であった上総坂本城(長南町)が近くにあったことなどから、一揆の残存勢力を完全制圧するために築城する必要があったのではないだろうか。
  • 上総本一揆に参加した領主たちから鎌倉公方足利持氏が没収した御料所が庁南城周辺に当時も多く存在していたと考えられる。
  • 武田信長は庁南城を居城とし、上総国各地に散在する御料所を古河公方の代理として収公しながら、古河公方恩顧の領主を味方にして支配地域を拡大していった。それでも上総国には敵対する者が多くいたと考えられる。
  • 康生2年(1456年)11月馬加康胤が上総国八幡郷に出陣し、不意なことで討死を遂げたと千葉大系図に書かれている。幕府派との本格的な戦闘ならば平山城や小弓城から安易に出陣はしないはずで、八幡郷付近の戦闘で武田信長の援軍として出陣したら、侮った敵軍の奇襲攻撃を受け討死したのが事実であろう。この時に戦った相手は上総本一揆などの残党など武田信長に敵対した者たちである。敵は戦いに慣れているため、少人数でも侮れない存在だったのである。このように武田信長に敵対する勢力が上総国西部に多く存在したので、天然の要害として守ることを重視した真里谷城が築城された。
Wikipediaによれば寛正4年(1463年)に武田信長は隠居し家督を嫡子武田信高に譲り庁南城主とし、自らは真里谷城に移ったと書かれている。真里谷城は既に築城されていたはずだが、武田信長が移ってから重要拠点となっていく。
古河公方から武田信長の所領安堵の書状に「上総国造細郷等の知行」が含まれていることは既に述べた。
上総国造細郷等は小櫃川沿いに位置する望陀郡にあったことから、望陀郡方面での勢力を強化するために真里谷城に移ったのかもしれない。
真里谷城は房総丘陵の天然の要害として築城されており、外部からの侵攻に備えを重視した城である。



◎その後の武田信長
文明3年(1471年)上杉方が長尾景信を大将に古河城を攻撃した為、古河公方足利成氏が千葉孝胤の本佐倉城に退避する事態となる。上総武田氏系図によれば、武田信長が馳せ参じ軍功をあげると書かれている。古河公方足利成氏のもとに両総の兵が集結し武蔵国を脅かす事態になったことで、上杉方は古河城攻撃に軍を集中できなくなった。その結果古河城の事態が改善し古河公方足利成氏は古河城へ帰ることができた。
武田信長は古河公方足利成氏にとって最後まで忠実な家臣でありつづけた。

 
 
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